雑記

昔の作品、たとえば手塚治虫であったり、昔のロボット物だったり、純文学だったりを「より楽しく」読むためには、その当時の人たちの衝撃を想像して読まないといけないなとよく思います。というか、ほとんどの人は無意識的にある種の「過去の人の目」で持って古典を読んでいるんじゃないかなと。たとえばドストエフスキーであったり、手塚治虫だってそうですが、「時代が変わっても変わらない人間性」を書いているからこそ長く受け継がれているわけですが、やっぱり表現が古くなってしまっている。

どんなに革新的な技法、新しい表現、切り口を発見したとしても、それが革新的であればあるほどより多くの人に模倣される。なので、過去において革新的であった作品は、その何年後、何十年後かには模倣されて溢れかえっているはずなんですよね。しかも中には優秀な、より発展された模倣もある。そんな中で、わざわざ源流をたどっていく意味っていったいどんなものがあるんでしょうかね。