4月4日のニュース

雑記──当たり前だけど言葉の意味をしることと、理解することは違う

言葉の意味を知ることと、言葉の意味を理解することはまったく別なのだなぁと最近よく自覚する。知識と知恵は違うっていうのと同じような話だ。自分に引きつけて言えば、つい最近までカートヴォネガットの言葉である

「シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できるかぎりよいものをと心がけること。信じられないほどの見返りが期待できる。なにしろ、何かを創造することになるのだから」

「できるかぎりよいものをと心がけること、それが創造だ」と、言っていることの意味はわかっても、それを理解してはいなかった。しかし今は理解している、少なくとも半分は理解していると思いたい。しかしわたしが感じている、「理解」を今この時点で言葉にして人に理解してもらうのは困難であると思う。それは意味を知ることとはまったく違うのだ。五輪の書を読んでも、宮本武蔵と同じ強さにはなれないように、言葉はまったくもって不自由だ。高望しすぎなのかもしれないけど。

ある時ふっと理解できるのだ。わたしはヴォネガットの言葉の意味を、「伊藤計劃記録」を読んでいて理解した。というか、伊藤計劃という生き様を見続けて、ようやく理解した。彼の生き様が、まさにヴォネガットの「創造」を体現していたからだ。しかも、誰よりも過剰に。